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闇を照らす炎は無く、全て黒に塗りつぶされているはずの風景が淡く白く光っている。 古来より月光は魔性を惹きつけ、人の心を狂わせるのものだと聞く。 陰陽道だの鬼術だの仙術だの一介の剣客には良く分からない領域には普段からあまり触れないし興味も沸かないが、こんな夜には確かに鬼や妖怪が月の光の影から顔を出すのだろうと思う。 だが此処は鬼も恐れる―というか鬼も殺せる手練手管の猛者が集う柳瀬囲破流剣術道場、物の怪の類が訪れるとしたら、この町の事情も何も知らずに月に照らされ淡く輝く玉砂利の庭に佇む若武者と老剣士を食らおうとやって来るというのが妥当なところだろうか。 しかし、もしそんな物の怪が存在するのなら彼は不幸というか迂闊というかやっぱり不幸であるとしか言いようが無い。 腹を満たそうと庭に忍び込んだ瞬間に首を刎ねられ、自分が何をされたのかも分からないうちに首を失くして倒れる自らの身体を見ながら闇へと沈んでいくだろう。 「なぁテツよ」 「なんだ爺さん」 「お前さんは、自分が何をしようとしてるのか分かってんのか」 「ああ」 「それで後悔しないってのか」 「ああ」 「囲破流を捨てても」 「ああ」 「義正は恨むぞ」 「だろうな」 「深澄は泣くぞ」 「俺にも女泣かせるくらいの甲斐性はあったんだな」 「俺も悲しい」 「アンタを最後に持ってくるな感動が薄くなるんだよ糞爺」 「減らず口を」 若武者と老剣士、二人の間の空気が張り詰め、大気を歪ませる様だと錯覚するほど強烈な緊張感が周囲を包んでいく。 人はそれを威圧感若しくは殺気と呼び、死と流血の予感として認識している。 だが二人の表情も声色も楽しそうで、行儀が良いとはとても言えないが彼らなりの別れの儀式とも取れる。 本当に楽しそうで、楽しそうで―悲しい。 そう思っているのは二人共か、それとも一人だけなのか。 「テツよ、分かってんのか」 「何が」 分かっている。『テツ』には老剣士が何を問おうとしているのか分かっている。 それは『テツ』が老剣士に一番最初に教わったこと。 「自由ってのは」 だから、胸を張って 「何も背負わず、何にも持たず、ただ独りであることだ」 答えられるのだ 「…だろ?」 その問いに。 「正解だよ糞餓鬼。鎖に繋がれた獣みたいに睨むだけの餓鬼がよくぞここまで成長しやがったド畜生」 「ここまで強くしてくれてありがとうよ糞爺」 二人の左手は元より腰の刀剣に掛かっている。そして親指が鯉口を切り、右手が柄を握り、鉄の蔵から殺すために存在する反身の芸術が姿を現す。 かたや無名の凡刀。かたや国中にその名声を轟かせる孤高の刀工・村正が打ちし一刀。 『テツ』の目に幾人もの…否、十や百ではきかないほどの人間の血を吸ってきただろう白刃が映る。 あまりに恐ろしい切れ味と凄惨な逸話と共に名刀を妖刀へと変化させた、その呪われた刃には細やかな刃紋が映し出されている。 その白刃が、刃紋が、魔性の光に照らされて淡く光る。 何処の誰かが「村正の刀は斬った人間の数だけ刃紋が増える」などと噂したものだが、今ならそのくだらない噂話を信じることが出来る。 その刃はあまりに妖しく美しい。このまま斬り殺されても構わないと思ってしまいそうなほどに、現実離れしている。だがその美しさは村正だから、という理由だけではない。それは辺りを照らす月光と、目の前にいる柳瀬後胤の透き通るような殺気があればこそ。 齢五十をとうに越え、六十の大台にさしかかろうという老人から放たれるには少々物騒な魅力だ。 だが飲まれない。 囲破流の心構え、何よりも重要なのは「己が精神を乱されないこと」である。 敵が剣豪だろうと将軍だろうと鬼だろうと老人だろうと、己の為す事を曇らせてはならない。 たとえ得物にいかんし難い差があろうと、経験に云十年の差があろうと、見据えるのは敵と己の精神のみ。 ただ剣を握り、構え、敵を見据え、敵の動きを捉え、敵の攻撃を見切り、最速の太刀を、最短距離で、最も有効な拍子にて放つ。 相手が剣の妖怪だろうと難しいことではない。 ありとあらゆる戦況を大小だけで切り抜けるための戦場剣術の集大成、それこそが柳瀬囲破流剣術。 敵が一人だけだろうが大群だろうがやるべきことは変わらない。 「最後に聞くぞ」 「なんだ」 「刀を納めて輝かしい人生を歩む気は無いか」 「派手に着飾るのは好きじゃないんでね、俺は」 「そうか…」 殺気が収束し、目に見えぬ研ぎ澄まされた数え切れない針が、互いの身体を射抜く。 しかしその針は互いの身体を捉えることなくすり抜けて消えていく。 『縛り射殺し』の対処法は強靭な精神と肉体で受け止めることではなく、風や水のように受け流すことにある。 やがて殺気は数を減らし、互いが構える人斬り包丁へと集まっていく。 「「残念だ」」 あの日の糞餓鬼を。 あの日の糞爺を。 もう見られないのが残念だ。 思い出せないのか思い出したくないのか、この夜のことは朧気にしか覚えていない。ないが。 影の無い月が、やたら輝く夜だった。 それだけは、ハッキリと覚えている。 |